ヴォイスとナビゲーション

内田樹先生のブログや書籍に度々登場する「ヴォイス」という単語は、僕にとって難しい単語だった。ヴォイスを身につける、ヴォイスを割るといった言葉の説明を、内田先生は丁寧に説明してくださる。その文章を読んでも、僕はわかるようでわからないという感覚に陥る。

このヴォイスとは何かというのを本来はここで「自分の言葉で」説明しなければいけないのだが、これがなかなか難しいので、昔から読んでいるこのブログを掲載します。内田樹先生のブログです。以下のブログは、ヴォイスに関連する最新の記事だ。
僕は昔からこのブログを読んでいる。しかし、そのたびに「明らかに僕にとって必要なことが書いてあるはずなのに、わからない」という頭の悪い感想で終わってしまう。

でも、最近久しぶりに読んでみて気づいたことがある。それは、「対話型鑑賞におけるナビゲーターの養成訓練は、内田樹的に言うヴォイスの獲得に向けた訓練」でもあるのではないか、ということである。

僕は京都造形芸術大学のアートプロデュース学科に入学して、対話型鑑賞を学んだ。
対話型鑑賞というのは、「みる、かんがえる、はなす、きく」という4つの行為・思考をもとに、複数の鑑賞者が作品を前にして対話し、鑑賞を深めていくというものである。見方によっては、鑑賞を通して対話することを学ぶことといってもいいかもしれない。そして複数人いる鑑賞者の対話を整える役目としてナビゲーターがおり、学生はナビゲーターとしての役割を学ぶ。

ナビゲーターは、鑑賞者の意見を引き出し、関連づけ、整理し、比較し、疑問に思い、問い、対話を深めるアクションを起こし、作品の奥底まで導く役割を担う。この役割を理解し、実践するまでに1年間の訓練を積むわけである。今日はこの部分、ナビゲーターに求められることについての話をしたいと思っている。

ちなみに僕は対話型鑑賞者ではなく、対話"難"鑑賞者だった。詳しくは以下のリンク。
話を戻す。僕がなぜ「ヴォイスの獲得」と「ナビゲーションの習得」に関連性を見出したのか。正直言ってわからない。なんとなくパッと頭に浮かび、それに感覚的説得力を感じたのだ。なんとなくだが、腑に落ちるところがあったのだ。そのきっかけが、内田先生のブログ、最新の記事によるこの文章だ。
「自分ではないもの」に言葉を仮託した方が人間はものを「ていねいに観察する」ようになるということを知ってほしかったからです。
僕は今まで、いかに懇切丁寧に記述し、自問自答を繰り返し、推敲していくか、ということがヴォイスである、という、全くピンと来ない定義でヴォイスを理解していた(それほどに理解していなかった)。

しかし、上記の文章を目の当たりにして突如にして気付かされたのである。
「僕はナビゲーションを理解していなかった」ということを。

僕はナビゲーションの訓練を受けている時、いかに相手の曖昧な表現を汲み取って、それを鮮明な形で共有するために「どうしてそう思ったのか」「どこからそう思ったのか」と、機械的にハンコを押すように意見を聞いていたかもしれない。

あるいは、いかにして相手の主張を自分なりに理解するか、という点において、非常に頭を回転させていた。「いかにして相手の主張を自分なりに理解するか」という僕の発想が、いかに間違っているかという点で、ここではポイントとなる。内田先生の言うヴォイスはこれと異なる。
「自分ではないもの」に言葉を仮託した方が人間はものを「ていねいに観察する」ようになる
ということである。
つまり、僕はナビゲーションを学ぶ時に、あくまで自分の外に出かけなかったのだ。僕は自分の殻に閉じこもり、自分の部屋の窓から隣人の部屋の中を覗き見、隣人の行動を観察していたにすぎなかったのだ。

そうではない。僕は、自分の部屋を出て、隣人の部屋中に入り、僕ではなく隣人として生活する必要があったのだ。

朝起きて、目覚まし時計を止め、カーテンを開けて、日光の眩しさを浴び、歯を磨く。朝食をとった後、髪の毛をブラシでとかし、ヘアアイロンでうねったロングヘアをストレートに整え、少し時間を気にしながら化粧をし始める。肌に下地を塗り、少し疲れる腕の角度を一定に保ちながら、迂闊にまばたきをしてしまわないように、呼吸を止めて、使い慣れた器具でまつ毛をクリンとカールさせる。一つの作業を終えるたびに「ふう」と息を漏らし、口紅を手に取る。鏡に向けて顎を突き出し、口紅が唇の範囲外に触れないように、口角から丁寧に塗る。左から右に口紅を動かすのではなく、首を右から左に回転させることで、震える手先の不器用さをカバーすることで慎重に塗ることができる。ちゃんと塗ることができたかどうかは、口紅に引っ張られて隠れた唇が、手に持つ口紅の陰から時間差でプリンと露わになってからようやく理解できる。うまく化粧できて、少し得意な顔をする。

このようにして、自分ではないものに憑依するかのように自分の言葉を他者に託して、「自分とは異なる他者となった自分」の口から言葉を発することこそ、当時の僕に欠けていたことだった。僕は真面目に「私はあなたの言葉を、私の立場で翻訳する」ということに懸命だったのだ。それでは足りない。僕は他者と同期する必要があったのだ。他者の部屋に入るところから始めなければいけなかったのだ。

他者の言葉は他者への扉的なものではないだろうか。言葉というメッセージは、他者が私にくれる手紙ではない。その手紙を読んで、他者の外側から他者を解読するものではないのだ。むしろ、言葉というメッセージは便箋そのものなのではないか。

便箋としてのメッセージを受け取った僕は、封を開ける。封を開けたら、その中の手紙を読んで終わるのではない。封を開けたら、その手紙を書いた人になったつもりで、手紙を書くところから始める。書き終えてから、その手紙を読んでみるのである。

「この絵は青くて寂しいです」
「どこから寂しいと感じましたか?」

と、ハンコを押すように、まるで「手紙を読みましたよっと」と言わんばかりの傲慢さで、その手紙を差出人へと突き返していなかっただろうか。僕は少し反省している。

青い絵を見て寂しさを感じる。自分の周りにだれもいない、たった一人になった気分で、肌寒く、できることなら日の温もりや人の温もりを感じたい。それは、青という水を連想させる色、冷たさや寒さを連想させる色が、反対色である暖色を本能的に求めさせたからだ。

でもそうだろうか。実際に発言者の立場になったつもりで体感してみたとして、発言者と同じ感想や根拠を思い浮かべることができるだろうか。それはできないだろう。実際には、青色とは全く異なった要素である、描かれた風景の閑散さから寂しさを感じたのかもしれない。

とてもリアルに、その発言をした鑑賞者の身になってみて、その言葉を入り口に「発言者となったつもりで」体感してみたとしても、全く同じ根拠でその発言を再現することはできない。

しかし、僕はこの齟齬、他者との違いが明らかであることを自覚することにこそ面白みがあると思っている。内田先生はブログでこう述べている。

どういう意図で書いたのかということと、実際に書かれたものの間には大きな「齟齬」が生じるのです
「説明」は「自分の書いたものをうまく説明できている」ことによってではなく「自分が書いたものをうまく説明できていない」度に基づいて評価されることになります
書いたものを自分の「所有物」のように扱うことができない。隅から隅まで、全部自分がコントロールしているものだと思えない。自分の書いたものが、自立した、独自の生命をもつもののように思えると、説明できなくなる。

つまり、自分ではない者(発言者)になりきって、発言者の言葉を説明するとき、「自分の言葉で説明しているけれども、この言葉は自分のものではない」という自覚が、ナビゲーションにおける他者への問いにつながるのではないかと思う。

発言者の発言を元に、他者になったつもりで他者の言葉を紡ぐ。しかしそれは明らかに自分の発した言葉と元の発言者の言葉との間に齟齬があり、距離があり、確信の持てなさがある。自分で説明したことの説明できなさに直面し、いかに自分と他者との間に説明の食い違いがあるか、距離があるか、いかに互いが見えないか、聞こえないか、ということの自覚がナビゲーションを育てる。それがナビゲーションたらしめているのではないだろうか。

問いがナビゲーションをナビゲーションたらしめるのではない。もちろん問いは大事なのだが、その問いを生成させるのが自分と他者との違いや遠さの自覚である。そして、他者との齟齬を生成させるのが、「他者になる」ということだ。ということなのかもしれない。あまり自信はない。それでも、試験官がハンコを押すように、他者に向けて問いを押し込むこと、あるいは、他者の発言の表層を説明できているつもりでいる問いの投げ方と、他者になったつもりで説明したことで生まれる齟齬を根拠にした問いとでは、全く異質なものであるということだけはわかる。

相変わらず、まだまだヴォイスがわからない。ということは、ナビゲーションもわからない。まだまだですね僕は。。

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